そろそろ東スポに「琴光喜プロレス転向!」のタイトルが踊ってもいい頃じゃないでしょうか?
そんなわけでさて今回は、歴代で力士からプロレスラーへ転向した、主な選手達を振り返ってみるとゆーお話です。
× × ×
■ 力道山
二所ノ関部屋、最高位は関脇。
1953年(昭和28年)に日本で初の(一般向け)プロレス興行を行った、日本プロレス界の父。そして敗戦後の日本に大きな活力を与えた、戦後最大のスター。
その後に続く日本プロレス界の道場や興行・巡業形態は、力道山が角界から持ち込んだもの。故に、角界からの転向者が非常に多かったのかもしれません。
ただ、先日の三谷幸喜ドラマなどでも使われた「相撲からプロレスへ転向」という表現はちょっと違いますね。
実際は50年の廃業後、東京の建設会社(この戦災復興を担った建設会社の多くは、その土地をナワバリにする黒社会とパイプが有ったそうですが)で資材部長として勤務しており、進駐軍への慰問プロレスで来日していた日系人レスラーのハロルド坂田と酒場でケンカした事で見込まれ、プロレスの世界に誘われています。この時まだ日本に「プロレス」という概念は無かったので、力道山は周りに「西洋相撲」と説明していたそうです。
さて力道山といえば「空手チョップ」ですが、これも実際は力道山に空手の経験は無く、日テレの佐土一正アナウンサーが「単なる“チョップ”では(当時の日本人には)伝わり難い」という理由で創作した言葉です。しかし、この空手の形で外国人をなぎ倒す姿こそが、敗戦後の多くの日本人の胸を打ったんですね。
(正確には力道山自身は現在で言う北朝鮮の出身で、長崎の百田家に養子入りしていたのですが)
なおこの後、元横綱の東富士もプロレス転向していますが、パッとせずに力道山の格下に扱われ、短期間で引退しています。
■ 天龍源一郎
二所ノ関部屋、前頭筆頭。
部屋騒動で廃業し、1976年にジャイアント馬場同席で会見し全日本プロレス入団。リング上で断髪式まで行いました。
デビュー後しばらくはツッパリで相手選手を押し込んだりする技を使いましたが、80年代に入る頃には手加減無しでゴツゴツと打撃を駆使した「痛みの伝わるプロレス」を標榜します。
新日プロから離脱して来た長州力ら(ジャパンプロレス勢)との死闘で名を上げ、その後、全日内でライバルのジャンボ鶴田との「鶴龍対決」で歴史に名を刻みました。
また後述する輪島の様な、角界では上の地位だった選手相手にも辛辣な攻撃を加えて、ファンを驚かせました。
様々な団体を興したり参戦したりしましたが、とにかく上の選手や団体運営に噛み付いて、自ら反体制側に回る事で、団体そのものを盛り上げるのが上手い。ここら辺、逆に「格」や「序列」意識の強い角界出身だからこその発想かもしれません。
60歳にしてなお現役の「ミスタープロレス」です。
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そんなわけでさて今回は、歴代で力士からプロレスラーへ転向した、主な選手達を振り返ってみるとゆーお話です。
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■ 力道山
二所ノ関部屋、最高位は関脇。
1953年(昭和28年)に日本で初の(一般向け)プロレス興行を行った、日本プロレス界の父。そして敗戦後の日本に大きな活力を与えた、戦後最大のスター。
その後に続く日本プロレス界の道場や興行・巡業形態は、力道山が角界から持ち込んだもの。故に、角界からの転向者が非常に多かったのかもしれません。
ただ、先日の三谷幸喜ドラマなどでも使われた「相撲からプロレスへ転向」という表現はちょっと違いますね。
実際は50年の廃業後、東京の建設会社(この戦災復興を担った建設会社の多くは、その土地をナワバリにする黒社会とパイプが有ったそうですが)で資材部長として勤務しており、進駐軍への慰問プロレスで来日していた日系人レスラーのハロルド坂田と酒場でケンカした事で見込まれ、プロレスの世界に誘われています。この時まだ日本に「プロレス」という概念は無かったので、力道山は周りに「西洋相撲」と説明していたそうです。
さて力道山といえば「空手チョップ」ですが、これも実際は力道山に空手の経験は無く、日テレの佐土一正アナウンサーが「単なる“チョップ”では(当時の日本人には)伝わり難い」という理由で創作した言葉です。しかし、この空手の形で外国人をなぎ倒す姿こそが、敗戦後の多くの日本人の胸を打ったんですね。
(正確には力道山自身は現在で言う北朝鮮の出身で、長崎の百田家に養子入りしていたのですが)
なおこの後、元横綱の東富士もプロレス転向していますが、パッとせずに力道山の格下に扱われ、短期間で引退しています。
■ 天龍源一郎
二所ノ関部屋、前頭筆頭。
部屋騒動で廃業し、1976年にジャイアント馬場同席で会見し全日本プロレス入団。リング上で断髪式まで行いました。
デビュー後しばらくはツッパリで相手選手を押し込んだりする技を使いましたが、80年代に入る頃には手加減無しでゴツゴツと打撃を駆使した「痛みの伝わるプロレス」を標榜します。
新日プロから離脱して来た長州力ら(ジャパンプロレス勢)との死闘で名を上げ、その後、全日内でライバルのジャンボ鶴田との「鶴龍対決」で歴史に名を刻みました。
また後述する輪島の様な、角界では上の地位だった選手相手にも辛辣な攻撃を加えて、ファンを驚かせました。
様々な団体を興したり参戦したりしましたが、とにかく上の選手や団体運営に噛み付いて、自ら反体制側に回る事で、団体そのものを盛り上げるのが上手い。ここら辺、逆に「格」や「序列」意識の強い角界出身だからこその発想かもしれません。
60歳にしてなお現役の「ミスタープロレス」です。
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