[1:FMW編]http://blog.livedoor.jp/zubunuretiwawa/archives/662612.html
[2:SWS編]http://blog.livedoor.jp/zubunuretiwawa/archives/662613.html
[4:UWF編]http://blog.livedoor.jp/zubunuretiwawa/archives/662621.html


  メキシコは、アメリカとはまた違った意味での「プロレスの本場」です。そのメキシコで進化したルチャリブレ(自由な戦い、の意味)スタイルの説明を最初にしておきます。

ごくごく簡単に言うと、覆面や怪奇コスチュームをまとい、スピーディな攻防や空中殺法(だけでは無いのですが)を駆使した…、誤解を恐れずに表現するなら「格闘技」ではなく「殺陣」に近いスタイルだと思って下さい。

 メキシコの団体との提携は80年代前半から新日本プロレスで行われていましたが、あくまでここに招聘されたメキシコ選手は「初代タイガーマスクの噛ませ犬」として呼ばれたに過ぎませんでした。いわば前座要員。

 メキシコ人レスラーはアメリカ人と比べてギャラが安く、使いやすかったというのも大きかったのでしょう。

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■ みちのくプロレス~ルチャの系譜 ■
 

 猪木の右腕として新日プロ黄金期を支えていた元営業部長の新間寿が、息子と一緒に90年に興したのが【ユニバーサルプロレス】。

 中心選手としてメキシコ生活の長いグラン浜田を擁し、国内初の本格的なルチャ団体としてスタートするも、メキシコから多数の一流選手を招聘し続けた事で経営が悪化。苦肉の策として新間氏本人が60歳を過ぎてレスラーデビューしたりしました。


 このユニバーサルの経営悪化により行き場を失った選手達は、若き日のグレートサスケを代表に、
93年に初の地元密着団体=ローカル団体【みちのくプロレス】を起こし(元はユニバーサルの東北支部の様な組織だったのを、団体として独立させた)、人気を博します。

 老人ホーム慰問や障がい者の無料招待など、地域貢献や社会的活動を率先して行っていたのも特長です。
 

 ここで寄り道。

 これに注目していたのが、新日本プロレスのいや、日本のジュニアヘビー級のリーダーとも言える獣神サンダーライガーでした。ライガー自身も体の小ささから(当時は)国内の団体には入門できず、単身メキシコへ渡ってデビューし、その後に新日本プロレスに逆上陸したという経歴があります。

 メジャー団体にとって、体の小さいジュニアヘビー級選手はメーンイベンターではないので、比較的、他団体との交流戦が容易です(=敗れても団体の看板に傷がつきにくい)。そしてインディー団体には、体は小さいが素晴らしい選手が沢山埋もれている

 かくて94年、ライガーが発起人となり、(当時は鎖国体制をとっていた全日プロを除いて)大小さまざまな団体のジュニアヘビー級が集まってトーナメントで戦う、「スーパーJカップ」を開催します。

この企画の特筆すべき点は、特定の団体にブランドを利用されるのではなく、毎回違う団体が持ち回りで主催するという事。94年の第一回は新日プロ主催、95年の第二回はWAR00年の第三回はみちプロ、04年の第四回は大阪プロという風に。


 これをキッカケにスターに伸し上がったインディー選手も多いです。ライガーに破れるも名勝負を残したハヤブサ(後に
FMWのエースに)、そのライガーを破ったサスケ(お笑い集団の様に思われていたみちプロが、この活躍で一気にブレーク)、新日プロ現場監督の長州力に「アイツは宇宙人か!」と言わしめたTAKAみちのく、他にも怨霊、カレーマン、四代目タイガーマスクなどなど

 96年にはこの延長で、各団体のジュニアヘビー級王者によるトーナメントが開催、決着がつく度に王座が統一され、最終的には優勝したサスケが「ジュニア8冠王座」に認定されました。その後、この統一王座は97年にWWFからのクレームで解体されますが(そんなにいっぱい統一しちゃったら、各団体で王座戦が出来なくなって困る、というのが本音だったと思う)、この時期、ジュニアヘビー級とインディー団体は、まさに黄金時代を迎えていたと言えるでしょう。

 
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  本題に戻ります。

 しかし、このみちプロというかサスケの放漫経営(大会場を使ってガラガラ。ギャラや会場費の踏み倒し)に嫌気が差したスペルデルフィンらが大量離脱し、99年に旗揚げしたのが【大阪プロレス】。この離脱会見ではサスケとデルフィンが、取材陣の目の前で激しく罵り合うシーンもありました。

この大阪プロはコテコテのお笑い+華やかなルチャで人気となり、常設会場の「デルフィン・アリーナ」を持っていたり、一時は大阪城ホールで大会を開催する等の盛況を誇りましたが、04年にまたもや選手の大量離脱で勢いを削がれてしまいます。

(デルフィンと結婚した早坂好恵が、芸能事務所型の選手管理を行ったとも言われますが)

 この大量離脱において、離脱選手のコスチュームは会社への返却が求められ、それが即ネットオークションに出回ったり、一部選手のリングネームを商標登録を理由に改名させるなど、ゴタゴタが表出しました。
 

  この後、大阪プロレスで第一線を退いたデルフィンが、暖簾分けの様な形で始めたのが【沖縄プロレス】。夜の国際通りを舞台に、観光客を対象に興行を打っています。

あと、上記の大阪プロを退団&改名した初代えべっさん→えべ太郎→菊タローは、全日プロのセミレギュラーなどで活躍。ビッグマッチではゲーマーズからデジキャラットの着ぐるみを同伴させて入場ゲートに登場してます。

 最近ではオタクを取込んだ新機軸として【アキバプロレス】という大会を、夏冬のコミケ時期に秋葉原UDXやディファ有明で開催したりしてます。(こちらは団体ではなく大会名)


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 さて話は前後しますが、ユニバーサル崩壊と前後して、エースの一人だった浅井はメキシコ遠征を機に、ウルティモドラゴンへと変身。そのブッキングルートに乗って(みちプロには参加せず)、SWSWARへ参加。しかしWCW遠征時に手術の失敗で左手の握力を失います。

 その後はメキシコへ渡り、レスラー養成学校「闘龍門」を立ち上げます。これは旧来的なプロレス団体の道場ではなく、学費を払う代わりにプロレスを教える学校というもの。
 

 この卒業生達の受け皿として97年、日本に逆上陸を果たしたのが【闘龍門JAPAN】。

 メジャー団体とは違う、小型(イケメン)レスラー同士の、スピーディな試合展開に主に女性ファンが殺到します。

 その闘龍門は絶好調のまま、04年に「ウルティモドラゴン校長からの卒業」を宣言して【ドラゴンゲート】に改称。
 

 この前後で弾き出された選手達(主にT2Pメンバー)とウルティモが05年に「想定外のプロレス」を掲げて立ち上げたのが【ドラゴンドア】。冗談で作ったライブドア風のロゴが本物の目に留まり、本当にライブドアの支援を受けてしまいます。

しかし06年、ウルティモドラゴンと袂を分かって(またか)【エルドラド】にリニューアル。これもごく短期間で休止。

 ウルティモドラゴンは、その後、佐山聡=初代タイガーマスクが興した【リアルジャパンプロレス】(母体は佐山の興した格闘技「掣圏道」)興行で2代目ザ・タイガーに変身したりしています。

 
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 みちのくプロレスはと言うと、大阪プロ分裂騒動の後、WWFへ遠征していたTAKAみちのくが一時的に帰ってきたり、旗揚げ直後で興行基盤の無かった闘龍門と提携して選手を補ったり、サスケ岩手県議員になって社長職を新崎人生に譲ったり、サスケが岩手県知事にまで立候補して落選したり(これによって岩手のもう一人の有名人・小沢一郎に睨まれたとか…)、またサスケが社長に返り咲いたり、でも新人がデビューしたと思ったらすぐ引退や退団を繰り返していったり

 いつの間にやら、現存する男子の団体では新日・全日に次ぐ歴史を持ってしまいました。
2009年12月13日(日)後楽園ホール大会
↑ 大人げない… 


 振り返ってみると、みちのくプロレスを辞めて有名になっていった選手ってのも多いですね。前述の
TAKAとかカズハヤシ(紫龍)とかMENsテイオーとか。生きるチカラが強くなるのかしらん?

  そんなみちプロ離脱者の一人であるマッチョ☆パンプ(ミステルカカオ)は98年頃に【CMLL JAPAN】を興し、メキシコのCMLLから直接選手を招聘して、本場のルチャを再現します。ミルマスカラスとドスカラスの兄弟を久々に来日させたのもココ。


 なお
FMW編で触れた、第4次WINGでの後楽園ホール会場費踏み倒し事件は、元はパンプが借りていたスケジュールを茨木氏に又貸ししたものだそうです。これが仇になったかは分かりませんが、その直後にCMLL japanは活動を終了しました。


 さらにどうでもいい話ですがパンプは若い頃、全日プロに入団するもすぐに辞めて京都に帰り、その際に先輩である川田のリングシューズを持って行ってしまったそうです。このシューズはその後、プロ入りを目指してトレーニングをしていた小橋健太の手に渡りましたが、全日に入団した小橋は川田からの「シューズ返せ」を無視して、未だ返って来ないとか


 一時
WWF(現WWE)にまで進出していたTAKAみちのくは、その後に帰国して02年に千葉で【KAIENTAI-DOJO】を興しました。これは独立した団体というより、WWE式で選手を育成して他団体に派遣する事に力を入れている、まさに道場です。
WWEは参加に幾つかのファーム団体を持っており、そこで選手を育成させている)


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 ルチャ系の選手は、他団体にパッケージで出張する事も多いです。パッケージというのは、例えば全日本プロレス主催大会の中の1試合に、みちのくプロレス選手同士の対戦が組まれる、という事です。

 ルチャってのは格闘技より殺陣(語弊があるかも)に近いので、相手選手との息も合ってないと事故に繋がってしまいますから、ルチャを知らない選手相手には試合を作りにくいのでしょう。
 

 そして一方メジャー団体では「プロレスは体の大きな選手が、その肉体同士をぶつけ合うもの」という認識がずっと有ったため、小柄でスピーディな選手の育成がなかなか進まなかったんです。

また団体間の移籍も多々あります。体1つでノシ上がっていくイメージでしょうか。リングでの飛び技以外でも「身軽」って事ですね!
 

 ただ弊害として、本格的にルチャが導入されて以降に、レスラーの小型化、単なるスタントショー化を招いたという批判も有ります。

 また、覆面なのを良い事に、他に生業を持ってる人がバイトでプロレスするケースが増えた(プロレスで食えないからバイトする、のではなく)のも事実です。
(ただし、本場メキシコでは兼業は当然で、孤児を抱える神父さんが覆面レスラーになって活躍した話は、映画にもなりましたね)

それでも、「巨体をぶつけ合う」のもプロレスの魅力なら、「飛んだり跳ねたり」だってまた別のプロレスの魅力だと思うのですが。(一般のお客さんには、後者の方が伝わり易いのも事実)

  さてさて、この連載、残るはUWF編だけです。いつになるやら。

 


[ちょい追記]
 90年代には各地に出現したご当地プロレス=ローカル団体が、2000年以降にあらかた消滅したり、あるいは、団体(道場で選手育成の段階から 全て行う)から、興行会社(所属選手を殆ど持たず、大会の度に選手や機材を借りて行う)へシフトして行きます。
 これはプロレス人気の下降以外に、地方経済の問題だと思います。
 90年代にはまだ探せば地元企業のスポンサーを見つけられていたのが、2000年代に入ると地方の企業に余力が無くなっていく(都会以上に)の とリンクしてるんです。
 メジャー団体ですら地方巡業のカットを行っている位ですから、体力の無いローカル団体の行き詰まりは、推して知るべしでしょう。